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シニア倶楽部』10号(平成23年発行)掲載の『いきいき人生』です。
※文中の年代や年齢の表記は、すべて掲載時(平成23年)のものです。

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生涯現役 いきいき人生

合唱指揮とわたし

合唱指揮者・声楽家

河崎 美智子さん (82歳)

 世田谷区経堂にある『日本ユーラシア協会』で、
15年近くユーラシアコーラスの合唱指揮者をなさっている
河崎美智子さんをお訪ねしてお話しを伺いました。

河崎美智子さん全身像

日本ユーラシア協会に入会しませんか?

入会金500 円、月額会費1,000 円
※入会金・会費は所属支部により異なります。
会員特典は会主催・後援の芸術公演、パーティ、交流会、講演会、映画会などに
無料または優待料金で入場できます。新聞「日本とユーラシア」を送ります。

問合せ先 156-0052 東京都世田谷区経堂1-11-2
電話 03-3429-8231  FAX O3-3429-8233
月曜~土曜 午前10 時~午後 6 時まで

HP : http://www.kt.rim.or.jp/~jes/

ユーラシアコーラス 団員募集中!

★ 河崎さんと合唱指揮との最初の出会いを教えていただけますか。

 私は昭和4年に長野県の飯山市に6人兄妹の長女として生まれました。6歳の時に父の仕事の関係で東京都荒川区に引越し、第二峡田小学校に入学しました。

河崎さん小学校時代第二峡田小学校合唱団

 小学校ではミュージカル『因幡の白兎』が大変印象に残っています。国語の先生が台本を書き、音楽の先生が曲をつけたオリジナルのミュージカルです。毛糸屋の娘さんが白兎になりました。彼女のお母さんが毛糸で編んだ白兎の衣装が決めてだったようです。
 私はこのような学芸会で、よく合唱の指揮者をしました。この頃から私の合唱指揮者人生が始まったのでしょうね。
 その後、第七高等女学校、今の小松川高校を経て、昭和20年4月に武蔵野高等音楽学校の声楽科に入学しました。
 戦争では多くの先生や同級生が空襲で亡くなりました。つらい思い出です。終戦後は学校の寮に入り、昭和24年に卒業しました。

★ 合唱指揮はどのように学ばれたのですか。

 私たち夫婦は、昭和29年から仕事でモスクワに住んでいました。ユーラシア地図

 この地で初めてオペラの合唱やプロやアマチュアの合唱を聴いて、合唱というジャンルがこれほど「人の心」を表現できるものかと大変感動したのがきっかけで、35年に国立モスクワ音楽院の合唱指揮科の研究生として勉強を始めました。

河崎さんモスクワ音楽院授業
モスクワ音楽院での授業。  左上は恩師の日本公演時のポスター(平成19年)

 合唱指揮のレッスンは、とても大がかりです。2台のピアノ囲まれて指揮台に立ち、私の指揮に合わせて、1台のピアノがオーケストラパートを、もう1台が合唱パートを弾きます。教師は私の正面で厳しく指導します。4・5年生になると、合唱指揮科の全学生による合唱団を指揮する授業が加わります。歌う方も指揮者なので、こちらが準備不足だったり、下手だったりするとなかなか歌ってくれません。

河崎さんモスクワ音楽院授業2モスクワ音楽院での合唱指揮の実習風景

毎学期ごとの試験はとても緊張して受けましたが、厳しくも贅沢な環境で勉強できたことは大変幸運だったと思います。

河崎さんモスクワ市街にてモスクワ市街にて

★ モスクワではどのようなお仕事をなさっていたのですか。

 はい、昭和29年から15年間、夫とともに『モスクワ放送局日本語放送』のアナウンサーをしていました。

河崎さんモスクワ放送局にてモスクワ放送局で

 私達の前には、有名な女優の岡田嘉子(おかだよしこ)さんがアナウンサーをしていらっしゃいました。私たち夫婦が、その後任として赴任したのです。当時、岡田さんは50歳を過ぎていましたが、ルナチャルスキー演劇大学に入学するために辞められたのです。

モスクワ放送局の前で モスクワ放送局の前で

 岡田さんのソ連でのお話しは、夫の河崎 保が以前に『岡田嘉子とその時代』という本にまとめていますので、その本を後でご紹介しますね。

河崎さんと岡田さんモスクワ郊外でモスクワ郊外で、岡田嘉子さん(右)と

★ ここ経堂にある日本ユーラシア協会は、どのような協会でしょうか。

 日本ユーラシア協会は、旧ソ連諸国民との相互理解と親善をはかり、世界平和に寄与することを目的としている団体です。設立は昭和32年で、50年以上の歴史があります。当時の名称は日ソ協会で、初代会長は元首相の鳩山一郎さんでした。
 活動内容は、文化交流や学術交流、ロシア語講座や留学斡旋など様々です。音楽会や演劇の後援なども盛んにしていますので、ホームページなどでご覧下さい。

★ 今、唱指揮者をなさっているユーラシアコーラスについて
  教えていただけますか。

 ユーラシアとは旧ソ連邦の地域のことで、私たちは主にこの地域の歌を歌っています。懐かしのロシア民謡から、現代のロシアの歌、日本の歌をロシア語で歌うなど様々な歌に取り組んでいます。主として中高年の男女約25名で活動しています。参加者は都内全域、遠くは高崎から来ている人もいます。若い人も少ないですが参加していますよ。

★ 合唱指揮者としてのお考えなどをお聞かせいただけますか。

 国立モスクワ音楽院の在学中に学んだことは、ユーラシアの音楽芸術の歴史の深さと素晴らしさ、そして合唱指揮の重要性でした。いつか、日本の音楽学校にも、合唱指揮の専門課程ができるよう願っています。

河崎 保 著作『岡本嘉子とその時代』抜粋

著作「岡田嘉子とその時代」

女優

 岡田嘉子さんは明治35年、広島市に生まれます。大正7年、東京女子美術学校卒業。大正9年、念願の新劇入りを果たし、翌年の帝国劇場公演「出家とその弟子」(倉田百三作)で好評を博します。
大正11年、「髑髏(どくろ)の舞」(田中栄三監督)で映画にデビュー。大正14年、「町の手品師」(村田実監督)は、朝日新聞社の最優秀映画賞に輝き、岡田さんはトップスターの座を不動のものとします。

恋人 杉本良吉

 こうした中で、昭和11年、岡田さんは松竹撮影所から井上正夫演劇道場に移籍します。ここで、岡田さんは演出家の杉本良吉氏と出会います。彼女は5歳年下の杉本氏から、型から入る芝居ではなく、人間の心理から役に入るという新しい演技の創造方法を学びます。こうして二人は急速に接近してゆきますが、時代が悪かった。

雪の国境線と二つのロシア語

 昭和13年1月3日、岡田さんと杉本氏は、サハリン(樺太)の雪の国境線を越えて、”社会主義” のソ連に亡命します。理由は、共産党員の杉本氏は思想犯として仮釈放中の身の上で、いつ再逮捕されるか分からなかったからです。
 3日ほどして、岡田さんだけがよそに移されると聞いたとき、杉本氏はロシア語のできない岡田さんに、最低限必要な言葉として二つのロシア語を教えました。一つがスパシーボ(ありがとう)、もう一つがウボールナヤ(トイレ)でした。その後、杉本氏は亡命の翌年の昭和14年に、日本参謀本 部のスパイとして銃殺されました。
 一方、岡田さんは杉本氏と引き裂かれたあとの生活を、自伝『悔いなき命を』の中で、「最低限の生活を保証されていた」と述べています。しかし実際は、劣悪な環境の刑務所に10年近くも幽閉さ れていたことが、死後2年たった平成6年に明らかになります。秘密警察から、「獄中のことは絶対口外しない」と誓約書を書かされていたのです。

モスクワ放送局 日本語放送

 このような生活の後に、岡田さんは昭和23 年モククワ放送局日本語放送のアナウンサーになり、昭和25年滝口新太郎さんと結婚します。
 滝口さんは元日活映画の2枚目スターでしたが、シベリア抑留をへて、戦後ソ連に残り、モスクワ放送ハバロフスク支局で働いていました。岡田さんと滝口さんは井上演劇道場で一緒に仕事をした旧知の仲だったのです。異郷の地でお互いの消息を知り合ったときの心境はどんなだったのでしょう。
 波乱の歳月を経た末に、しかも50歳を間近にして、ようやく岡田さんに幸せな生活が訪れたのです。

演劇への情熱再燃

 しかし、アンウンサーはもともと岡田さんの目指した仕事ではありませんでした。
 モスクワで暮らすようになって、芝居を観る機会に恵まれるようになると、それまで眠っていた演劇への欲求が目を覚まし、とうとう岡田さんはルナチャルスキー演劇大学に入学してしまいます。

モスクワの日本人

 昭和29年当時、モスクワに住んでいた日本人は10名足らず。その半数は滝口さんのような元抑留者で、放送局や出版社で翻訳者として働いていました。その頃は、普通の労働者の月給が、大体100から120ルーブルでしたが、滝口さんは300ルーブルの高給をとっていましたから、岡田さんは家計の心配なく学業に打ち込むことができました。

晩年

 昭和46年、岡田さんは20年あまり連れ添った滝口さんと死別します。翌年、その遺骨を日本に葬るため34年ぶりに帰国します。その後一旦ソ連に帰りますが、再来日してペレストロイカが始まろうとする昭和61年の春まで、10年以上の歳月を日本で過しています。この時代は後に「停滞の時代」と呼ばれたブレジネフ時代に一致しています。
 岡田さんがソ連の生活に戻った頃、私も友人たちと訪ソし、彼女と食事をしたのですが、その時とても楽しそうにゴルビー(ゴルバチョフ氏の愛称)の噂をしていました。おそらく彼女が生涯を通して待ち望んでいたにちがいない、本当の民主主義がソ連で現実のものになろうとしていた、そう感じさせる時代だったのでしょう。
 その後、ゴルバチョフ氏が不人気になるにつれて、岡田さんは元気をなくしていき、平成4年2月10日、モスクワのアパートで89歳の生涯を終えました。

河崎さん自宅にて岡田さんご夫妻 自宅に岡田嘉子さん夫婦をお招きして

旧ソビエト年表

河崎 保さん ご紹介

1923 年 生まれ
1945 年 日本映画学校を卒業、東宝撮影所に入社。
1952 年 北京に渡航、自由日本放送の開設に参加。
1954 年 モスクワ放送局勤務後にソ連国立映画大学に学ぶ
1969 年 帰国

河崎 保さんの関係作品 ご紹介

記録映画「モスクワの日本人」製作 受賞
「戦争と人間・完結編」(山本薩夫監督)協力監督  
「デルスウザーラ」(黒澤明監督)協力監督
ソ連の戯曲「グッド・ラック」演出 
いずみたく主宰のミュージカル劇団フォーリーズの演出・ 演技協力、
88 年ミュージカル「歌麿」のアメリカ公演に参加。
他、映画出演多数。

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