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シニア倶楽部』2号(平成20年発行)掲載の『いきいき人生』です。
※文中の年代や年齢の表記は、すべて掲載時(平成20年)のものです。

 大塚勝利さんの、おそば屋さん時代の取材記事です。
大塚さんは現在、「大勝庵 玉電と郷土の歴史館」の館長として活躍中です。
(『シニア倶楽部』11号に再登場、どうぞご覧ください。)

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出会いに感謝 故郷を大切に

大塚 勝利 さん(65歳)

人生の友、玉電との出合い

 瀬田で生まれ三軒茶屋で修業し、二子玉川に
店を構えた大塚勝利さん。
蕎麦処「大勝庵(たいしようあん)」 のオーナー、
大塚さんの傍らには、
ちいさいころからいつも玉電がありました。

大勝庵の大塚さん

★ 懐かしい玉電に出会う店

 大塚さんのお店は、田園都市線の二子玉川駅から旧砧線跡緑道と平行に走る、水道道路を成城の方向へ歩いて7分程のところにあります。

大勝庵看板

ここは、旧砧線の中耕地駅と吉沢駅の中間にあたります。お店の裏の緑道を砧線が走っていました。

お店の看板
大勝庵運転席

店に入ってすぐ右手に、「東急電鉄71形」の運転席が本物の部品を組み立てて再現されています。

玉電71形 店内復元運転席
玉電の敷石

左手には、つり革や標識盤、レールの一部や、今では見られないような丸い敷石などが展示されています。敷石は、じゃがいもくらいの大きさの自然石です。

丸い自然石の敷石

 正面には玉電の写真や駅名の地図などが貼られ、上がり座敷には「二子玉川郷土史会」のメンバーの画家が描いた地図があり、懐かしい雰囲気をかもしだしている温かい空間のお蕎麦屋さんです。
 近所の常連さんに混じって、鉄道ファンや郷土研究の人々が、大勝庵を目指し来ています。

二子玉川郷土史会の活動二子玉川郷土史会の方々と

大塚さん談笑

迎える大塚さんは笑顔がとても素敵な方。玉電の話題をきっかけに談笑が弾みます。

話に熱が入る大塚さん

大塚さんはこの出会いを大切にされています。こうして出会った人の話題や印象はその日のうちにノートに記入。そのノートはもう10冊目になるそうです。

なぜ、お店に玉電のものが展示されているのですか?

「私は、いわゆる鉄ちゃんと呼ばれる鉄道マニアではありません。郷土の歴史が好きなんです。
 玉電関係の写真やものが集まりはじめたのは、玉電廃止のことを聞いて、写真を撮り始めたのがきっかけです。」

玉電運転風景
(左)玉電77形運転席 (大塚さん撮影)大変貴重 (右)玉電廃止花電車

 「店に飾ってある玉電の写真も、東急電鉄OBの荻原二郎さんにご指南いただいて撮ったものです。展示でき、保管できるところへ集まってくるものですね。」

玉電瀬田駅辺り
(左)玉電瀬田駅辺り (右)砂利用貨車
玉電三軒茶屋辺り
(左)三軒茶屋周辺 (右)砧線の駅

★ 三軒茶屋での修業時代

若い頃はどんな青春でしたか?

玉電と三軒茶屋交差点
三軒茶屋交差点:角に切替塔、
高速道路もまだない

 「思えば、玉電とともにありました。  玉電の駅のあった瀬田で生まれ育ち、18歳のころから、三軒茶屋のお蕎麦の松喜(マツキ)さんで9年修業しました。青春の真っ只中で思い出も深く、三軒茶屋は第二の故郷です。」

 「三軒茶屋で過ごしたことから、たくさんの出会いがありました。昭和30年代は、まだファミレスやコンビニがなく、お店や事業所はお蕎麦の出前をよく取ってくれたので、まちの隅々まで知っていました。
 そのころの三軒茶屋の仲見世は、夕方には、人であふれで歩けないほど、賑やかで、繁盛していました。
 高度成長期で皆よく働きましたが、なかでも仲見世のお豆屋のご主人の働きぶりには目を見張るものがあり、大いに刺激され、その方の後ろ姿を手本として、独立を目指して修業に励みました。」

 「仕事のほかにも、仲見世の瀬戸物屋のご主人のお宅に伺った折、趣のある苔むした石に出合い、その方の指導の下、石を求めて、よく山歩きに同行させてもらいました。仕事一辺倒ではなく、趣味を持つことや人生の豊かさに気付かされました。
 映画館も全盛期で映写技師からもよくしてもらいました。
 三軒茶屋には実姉もおりますし、三茶仲見世のおもちゃの青木屋さんなど、休日に訪れた折には、旧交を温めています。」

★ 家族に支えられ、独立から38年

こちらにお店を出されたのは、何かきっかけがあったのですか?

玉電砧線跡
旧砧線跡 緑道

 「玉電は昭和44年に東急玉川線と砧線が廃止されました。
 私が店を開いたのが翌年の45年、大阪万博開催の年です。玉川高島屋建設のための代替地で開店しました。
 当時はまだ、畑もたくさんありました。染物屋さんもこのあたりに多く、野川では、染物を洗う姿も見受けられました。
 砂利を採掘した跡地は、窪地になって、池になっていましたが、埋め立てて、今はスポーツセンターになっています。」

沿線でお勧めのところ、お気に入りのスポットはありますか?

玉川周辺

 「玉川はいいところが沢山あります。胎内めぐりや四国八十八ヶ所めぐりがある玉川大師、高台から多摩川を望む絶景スポットの行善寺。郷土の歴史を紐解くのは、なにより楽しい。」

自然環境は抜群 生活し易そう
タンゴ雑誌「中南米音楽」表紙

「その他にタンゴが趣味です。踊るのではなく、聴くほうですね。私のお宝はタンゴ専門誌『中南米音楽』創刊号1952年創刊。今『ラティーナ』になっています。」

タンゴ専門誌「中南米音楽」 創刊号が宝物

「健康で、一家を守って、店を大きくして来られたのは、妻や子供の助けがあったから。好きなことをやってこられたのも家族のおかげです。」

これからの夢は? どんなことをしたいですか?

 「世田谷鎌田にある砧下浄水場の建物は大正ロマンの佇まいとして世田谷風景資産に選ばれました。
 このような歴史を伝える古い建物を残すことに協力していきたいです。」

玉川線の歴史

 明治40年、玉川電気鉄道は、急激に発展する建設需要の砂利を運ぶため開通された。
あわせて沿線住人を運び、また沿線住宅への電燈事業も行った。

玉川線本線

渋谷~二子玉川間 9.1km
明治40年3月6日 渋谷、道玄坂~三軒茶屋間開通
同年4月1日 三軒茶屋~玉川間開通により全線開通

下高井戸線(現在の世田谷線)

三軒茶屋~下高井戸間 5.2km
大正14年1月18日 三軒茶屋~世田谷間 開通
同年5月1日 世田谷~下高井戸間 開通により全線開通。

砧線

二子玉川~砧本村間 2.2km
大正13年3月1日 二子玉川~砧本村間 全線開通
砧線は二子玉川の砂利が少なくなったので、砧方面の沿線の砂利を都心部に運ぶためにつくられ、その後、宅地化が進み、住民の足となってきた。

※本線と砧線は昭和44年5月1日に廃止され、下高井戸線は世田谷線として現在に至る。
本線は、高速道路と同時建設の地下を走る新玉川線として昭和52年復活。
平成12年田園都市線に併合され、その名が終わった。

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